スペシャル対談第一弾!田中宗一郎×木津毅

スペシャル対談第一弾!田中宗一郎×木津毅

3月7日(木)8日(金)東京キネマ倶楽部で開催されるジョン・グラントの初単独来日公演。楽曲だけではなくミュージックビデオなども通して意外にもなかなか紐解かれる機会がなかった彼の表現の魅力を木津毅と田中宗一郎が徹底分析。
Photo by Daisuke Miyashita

【田中宗一郎プロフィール】
雑誌編集者。音楽評論家。DJ。大阪市出身。広告代理店勤務を経て、雑誌「ロッキング・オン」副編集長を務めた後、フリーに。97年に創刊された雑誌「スヌーザー」編集長を14年務める。現在はサインマグこと「ザ・サイン・マガジン・ドットコム」のクリエイティブ・ディレクターとして自社メディアの運営のほか、Spotifyプレイリスト〈POP LIFE〉の選曲、同じくSpotifyオリジナル・ポッドキャスト〈POP LIFE: The Podcast〉の編成・出演も務める。現在、鶴田浩二に取り憑かれている。飼い猫の名前はチェコフとアリア。
【木津毅プロフィール】
ライター、編集者。2011年ele-kingにてデビュー、以降、各媒体で音楽、映画、ゲイ・カルチャーを中心にジャンルをまたいで執筆。『ミュージック・マガジン』にて「木津毅のLGBTQ通信」連載中。編書に田亀源五郎の語り下ろし『ゲイ・カルチャーの未来へ』(Pヴァイン)。

木津「ジョン・グラントの初単独来日を盛り上げる企画なんですけど、どうしても僕だけだとゲイがゲイ・ミュージシャンについて語るみたいなものになってしまう部分があるので、今日は田中宗一郎さんに違ったアングルをお聞きしたいなと思っています」

田中「最初に言っておくと、とくに彼の2013年のアルバム『ペイル・グリーン・ゴースツ』はいまも特別なレコードだと思ってます。自分史で言うと、もうすっかり北米のメインストリーム音楽ばかり聴いていて、インディはむしろシャムキャッツやcero、森は生きているみたいな東京のバンドばかり、その後はフューチャーやヤング・サグを入口に一気にトラップしか聴かなくなるんだけど」

木津「ジョン・グラントについては、タナソウさんが2013年の“GMF”についてものすごく盛り上がっていたのを覚えているんですよ。実際、フォーク調のバラッドで彼の代表曲ではあるんですけど、僕はそれにけっこう驚いた記憶があります」

田中「勝手にタイプキャストしないで(笑)。実際、“GMF”は本当に特別な曲だと思っていて。とくにあの曲のヴィデオ・クリップには圧倒された。一時期、あのクリップをひたすら繰り返し見てました。すっかり取り憑かれちゃったんです」

John Grant - GMF

木津「それほどだったんですね。ほかにもそんな風に取り憑かれたような経験というのはあるんですか?」

田中「いまはほぼ毎日、鶴田浩二の映画を観ないとおかしくなるんだけど。でも、あれだな、はじめてクリント・イーストウッドの映画『ミスティック・リバー』を観たときみたいな衝撃だった。あのクリップって何を描いたものだと思います?」

木津「あのヴィデオ、僕最初に観たときにちょっと笑っちゃったんですよ。中年の男がひとりでバスケット・ボールを持ってただ街をウロウロしているっていう」

田中「そうそう。基本的なトーンはユーモラスだよね。ペット屋さんでウサギに噛みつかれそうになるシーンとか、とくに」

木津「ある孤独のスケッチなんですけど、それが常態化しすぎてちょっと笑えるものになっているっていう。悲壮になることもできないペーソスというか」

田中「俺は何度もボロボロ泣いちゃった。だって、あれ以上の孤独を描いた表現なんて観たことないもん。ほら、あそこでジョン・グラントが演じているキャラクターっていうのは、そこそこ社会的には満たされているじゃないですか」

木津「というと?」

田中「社会的な地位は高くはないかもしれないけど、衣食住は足りている。ひとりで街を徘徊していくときも、いろんなジェンダーや世代の人びとと交流してるカットが続くじゃないですか。きちんとしたコミュニティの一員なんだよね。でも、ステディな相手だけが決定的に欠けてる。それが意識的に描かれてるでしょ?」

木津「途中、何組かの、世代も民族も違うカップルとすれ違うシーンがありますもんね」

田中「クリップ前半で使われてるバスケット・ボールというのは、彼と社会との繋がりを象徴してるんだと思うんです。つまり、ちょっとした瞬間に失われてしまうフラジャイルなものだということ。だから、街路をバスケット・ボールが転がっていくショットがモンタージュされたあとに、後半のシークエンスに繋がっていく――そんな風にも解釈できると思うんですね」

木津「なるほど。バスケット・ボールが転がっていくショットのあとは、一気に集団のなかでの孤独をわかりやすく描いたシーンになります」

田中「だから、このクリップのモチーフは社会的な孤独だと思うんですよ。社会的な生き物である人間しか感じない孤独。俺といっしょに暮らしてる猫とかがまさにそうなんだけど、そのときどきでご飯くれて、優しくしてくれるひとがいさえすれば、相手は誰でもよかったりするんですよ(笑)」

木津「なるほど(笑)」

田中「だから、ここで描かれた孤独って錯覚だと思うんですよ。でも、社会的な生き物である人間はその錯覚から逃れられない。本当は恵まれているのに圧倒的な孤独を感じてしまう。だから、そういったすごく残酷な事実を突きつけるクリップだと思うんです。だって、近所にあんないい感じのお婆ちゃんの友だちとかいるわけじゃん。本当なら孤独もクソもないわけよ」

スペシャル対談第一弾!田中宗一郎×木津毅

木津「なるほど」

田中「そこはどうですか?」

木津「ヴィデオ自体はいったん脇に置くとして、曲自体はセルフ・エスティーム、自尊感情についてじゃないですか? 『俺は最高のマザーファッカーだぜ、さあ俺を愛してくれよ』って虚勢を張りながら、でも何よりも自分が自分を認められないでいる。つまり、社会的な自分の価値を認められないことについてだと思います。これはゲイに限らず、“モテ”っていう価値観が社会を悪くしているんじゃないかと僕はつねづね思ってるんですけど(笑)」

田中「その“モテ”っていう価値観が人びとを抑圧してる?」

木津「“GMF”はべつに非モテ・ソングではないですけど、ただ、何かしら社会から取りこぼされる人間の心情を描いている。そういう孤独感を、悲壮にではなくユーモラスに表出したのがあのヴィデオかなと」

田中「でも、あのキャラクターは友達たくさんいるじゃん。家に帰ると迎えてくれるステディがいないだけの話で。その、ステディな関係がいないと孤独、家庭を築けないのはダメ人間、っていう考え方もそもそも幻想でしょ」

木津「それはもちろん。つまり、一生独身でもいいし、ポリアモリーでも構わないっていう?」

田中「そうそう。でも、現行の社会風土がそれを許してくれない。クリスチャンでもないのに、自分たちの倫理からすると、ポリアモリーなんて気持ち悪い、間違ってると言われてしまう。もっとも厄介で、もっとも変えなければならないのは、そういった目に見えないインヴィジブルな制度だと思うんですよ」

木津「そうですね」

田中「ただ、それ以前に、もっと明確な社会制度として婚姻があるじゃないですか。あのクリップを見て思い出したのは、自分が20代後半とかに感じていた同調圧力。『そろそろ結婚しなくちゃ、社会的にヤバいんじゃないか』みたいな話。でもそれって、100パーセント錯覚でしょう?」

木津「まあ、たしかに」

田中「だって、べつに結婚なんてしなくてもいいわけじゃん。ほら、日本だと“適齢期””って言うでしょう。いまはもうアウトな言葉だと思うんだけど」

木津「完全にアウトですね」

田中「でも、その言葉が持つ制度性のおかげで、その年齢を過ぎた人たちが不必要に追い込まれたり、焦りすぎたあまり間違った結婚とかして不幸せになったりしてきた。だから、俺があのヴィデオに一番触発されたのは、社会が内包していて、誰もが知らず知らずのうちに従ってしまう制度――それが明文化されているものにしろ、されていないものにしろ――そういう制度性に対する怒りだったような気がするんですね」

木津「怒り?」

田中「つまり、『あ、俺、こんなにも普段から、世の中に蔓延する制度性に苛立ってたんだ!?』ってことを気づかされたってこと」

木津「ああ、なるほど。婚姻制度のことでいうと、2010年代前半って同性婚がアメリカでものすごく議論になっていた時期ですよね。州単位でどんどん合法化されて、これが全米で通用するか、みたいなところで。ポップ・ミュージックの領域でそれをもっともわかりやすくやったのが、2012年のマックルモア&ライアン・ルイスの“Same Love”だったと思うんですけど」

Macklemore &amkp; Ryan Lewis feat. Mary Lambert - Same Love

木津「のちにグラミーでのパフォーマンスになったりして、非常に重要な役割を果たしたんですけど。ただ、ある意味ではすごく政治的なものだとも言えるわけですよね」

田中「そうそう」

木津「で、ある種の政治的な運動によって見えなくなる個人の孤独みたいなものを、ジョン・グラントの歌は掬っているんじゃないかと。当時はそんな風に考えていました」

田中「そう、まさに。この2010年代のディケイドで起こったことというのは、いろんな社会的な膿を政治の力で変えていこうって話ですよね。たくさんの努力が行われてきた。でも、政治とか司法制度というのは、誰しもに共有されることを前提にするがゆえに、個人を抽象化しまうところがある」

木津「たしかに。まだ終わってないですけど、10年代ってアイデンティティ・ポリティクスの時代だったと思うんです。もしかしたら60年代を凌ぐくらいの」

田中「うん、まさに」

木津「で、ゲイ・イシューであるとかLGBTイシューもその重要なひとつだったと思うんですけど、運動やスローガンの前で個人が消えてしまうみたいな感覚はどこかで感じていたのかもしれない。これは完全に個人的な話なんですけど――」

田中「いや、詳しく訊かせて下さい」

スペシャル対談第一弾!田中宗一郎×木津毅

木津「僕はゲイをカミングアウトしていて、かつ物を書く立場なので、何か意見を表明するときに個人よりも自分の社会属性を優先していないか自問するときがしばしばあるんですね。自分が本当に感じていることや考えていることよりも、スローガンや政治的な結論が先に来てしまっていないか、と」

田中「それって、いままさにいたるところで起こってることでしょう」

木津「いっぽうでジョン・グラントの歌って、ゲイである自身を包み隠していないがゆえにこそ、何よりも個人の真実を優先しているんですよ」

田中「そう。ジョン・グラントが超一流だっていう理由のひとつは、それも重要なポイントだと思います。社会的に認知された属性を前にすると、数限りないヴァリエーションとしての個人は抽象化されてしまって、置き去りにされてしまう。でも、彼の作品には、特定の社会属性には回収されない、個の生々しさが伝わってくるんです。ただ、実際、どうなの? ジョン・グラント自身は自分の音楽をゲイ・ミュージックっていう風に形容されるのはオッケーなひとなの?」

木津「本当のところはわからないですけど、基本的にそこはオッケーだと思いますよ。聴き手がどうジャッジするかはコントロールできないって話してましたから。何より、歌では個を最優先するんですけど、その表出としてはゲイ・カルチャーの横の繋がりをすごく大切にしていますからね」

田中「いや、もちろん、社会生活する上ではそうなんだけど。自分だって社会的に認知された中年男性として行動するしか方法はないわけだから。ただ、僕自身はジョン・グラントの音楽をゲイ・ミュージックとして聴いている感覚はまったくなくて」

木津「そうなんですね?」

田中「優れた表現というのは、社会的な属性から受け手を解放する触媒だって思ってるんですよ。そういう位置づけ。ほら、映画でも小説でも音楽でも構わないんだけど、表現に向き合う時に巻き起こる最大の作用って、自分は誰でも何でもなく自分でしかないって思わせる、そういう効果があるでしょ。これって、俺だけの錯覚なんでしょうか?」

木津「うーん、難しいところですよね。タナソウさんのおっしゃっていることはすごくわかりますよ。自分とまったく異なる社会的属性や境遇の表現に心が動かされるという。それがポップの重要な働きですよね」

田中「いま、木津くんが話してくれたことを俯瞰的な視点から言い換えると、優れたポップというのは異なる立場や考えを持ったトライブの間に橋をかけるものだってことでしょ。それって、その表現が誰にとっても外国語であることが前提で、ジョン・グラントの音楽というのは、自分にとってはそういう表現なんです。とくにゲイというアイデンティティを強烈にリプリゼントしているとは感じない」

木津「ただいっぽうで、ゲイであるとかブラックであるとか、マイノリティの実存や感情ってマジョリティの原理でどうしても消されてしまうところがあるので、僕はアイデンティティに紐づいた表現というのもすごく大切に思うんですよ」

田中「もちろん。だからこそ、木津くんが言うように、2010年代はアイデンティティ・ポリティクスの時代になったわけだし。でもさ、たとえば、自らを“女性向け”と称しているメディアが“女性向け映画特集”とかやったりすることあるじゃん。それはナシでしょう、って思うの(笑)」

木津「それはそうですね(笑)。それはマーケティングの理論ですからね」

田中「表現のポテンシャルを見くびってるんですよ。俺、そんな風に表現の潜在的な可能性が政治やマーケティングに利用されるのがとにかく嫌なんですよ。しかも、そういうのって、さしたる悪意もなく、無意識だったりするじゃん」

木津「だからこそ、タチが悪いし、根深い問題なんだ、と」

スペシャル対談第一弾!田中宗一郎×木津毅

田中「個人的な話をするとね、子どものころから、自分のジェンダーだとか世代だとか、自分が70年代の大阪に生まれて、どんな家庭で育ったとか、戸籍に書いてあるような社会属性からタイプキャスティグされるのがとにかく嫌だったんですよ」

木津「でもタナソウさんってヒップホップ好きじゃないですか。レペゼン文化もダメなんですか?」

田中「苦手。コミュニティのための音楽が存在することは理解できるけど、民族だとか、血だとか、国籍だとか、自分が生まれた地域をレペゼンするというのはやっぱりピンと来ない。だって、すべて与えられたものなんだもの。前にも書いたことがあるけど、自分がレペゼンするのは自分で選んだものだけ。自分自身で選んだ本や音楽、映画だけ。それが特定の文化や時代が産み落としたものだとしても、自分自身の社会的な属性を越えた場所に運んでくれるアート、それだけが自分がレペゼンすることのできるものだって感じてるんです」

木津「なるほどなあ。僕はジョン・グラントの表現に、どうしてもゲイという属性やその固有性を落としていないところに感動するんですけど、タナソウさんはむしろ逆のベクトルなんですね。それは面白いですね」

田中「いや、アイデンティティというのはどうしたって滲み出してくる消えない傷跡みたいなものだと思うんですよ。だから、それが滲み出してこない、漂白された表現はつまらないと思う」

木津「ああ、つまり、むしろ個の部分が滲み出した結果、社会的なアイデンティティも結果的に浮かび上がらせることになるんだ、と」

田中「そう。逆に、それを強烈に打ち出してくる表現というのは受け入れがたいっていう。だから、日本人が『好きな音楽は邦ロック』とか言うのを聴くと、気が狂いそうになっちゃう。そもそも個人であろうと、作品であろうと、最終的には社会的な属性にからめとられちゃうのに、なんで進んでそこに縛られたがるのか理解できない」

木津「なるほど」

田中「だからこそ、やっぱり優れた表現はすべて外国語だと思うんですよ」

木津「外国語だっていうのは?」

田中「受け手の誰にとっても外国語だっていう意味。すべてのひとにとって外国語であるからこそ、むしろ立場や考えの異なる人びとに共有されるっていうメカニズムを持っているってこと。でも、最近はそういう考え方自体が通らなくなってきたじゃない?」

木津「たしかにそういう部分はあります。そういう意味では、ジョンはゲイという属性よりも個人が先立っていると思いますよ。個の集積によってコミュニティができているんだっていうことを、感覚的に受け止めているところがあるので」

田中「ごめんなさい。なんか俺、ずっと怒ってるみたいで(笑)。でも、レディオヘッドとジョン・グラントだけは、普段は忘れてるんだけど、自分が社会的な生き物として日常的に何に苛まれていて、何に苛立っているのか――それを無理やり思い出させてしまうような音楽なんですよ。普段はあえて閉じてる蓋を無理やりこじ開けられちゃうような体験っていうか」